第20回 演奏曲の解説



演奏曲の解説



第1ステージ

“ 歌い継ぎたい日本の歌 ”


夜空の記憶のどこかに

作曲者の佐藤賢太郎は、楽器製作で有名な浜松市出身で、長くアメリカに滞在し、現在もロスアンゼルスに住みながら幅広く音楽活動を行っています。
彼の活動範囲は実に幅広く、作詞、作曲、編曲、指揮(オーケストラ、合唱など)、さらに教育者、歌手など多方面におよび、現在では、日本国内でも合唱指揮などで活躍の場を広げています。

“ 夜空の記憶のどこかに ”は、佐藤自身の日本での星にまつわるおとぎ話や童謡など、幼い頃の記憶をもとに4曲を作詞・作曲していますが、私たち歌う側が、詩・曲想に全く違和感なく溶け込めるのは、作曲者と同じ幼い頃の星空への記憶が、ふつふつと蘇ってくるような共感があるからでしょう。


「星はなにを」では、“ 一番星見つけた ” と歌い始めますが、我々も幼い日、夜空を眺めながら “ 一番星見つけた、二番星・・・ ” と歌ったものです。
佐藤は、この音楽の流れを自在に操って、新しい音楽の境地に連れて行ってくれます。


「七夕の想い」でも、前奏の後 “ ささの葉サラサラ のきばにゆれる お星さまキラキラ・・・ ” と歌いつつ、別の音楽の境地に連れて行ってくれます。


「花火と月と」では、 “ ドーンとなった花火だ、きれいだな 空いっぱいに広がった しだれやなぎが広がった! ” と歌われますが、この曲想は、子供のころの夏の夜の花火大会の驚きの光景を思い出すようです。


「朧月夜の涙」では、“ 菜の花畑に入日薄れ 見わたす山の端 霞深し ” で始まる童謡の1.2番と続き、3番からは、この曲想の素晴らしい変化に引き込まれていくようです。


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“ 九ちゃんが歌ったうた ”


「心の瞳」

この曲は、坂本九が御巣鷹山の日航機墜落事故で亡くなったその日に初めての公開収録が行われ、彼が当地から帰京するため同機に乗り合わせ惨事に遭遇したという、彼にとっては本当に最後となった曲です。


「ともだち」

1964年頃、宮城県仙台市西多賀小・中学校療養所分校の児童たちに坂本九のファンが多く、病に負けず明るく勉学生活に励んでいる姿に感銘を受け、永六輔が作詞、いずみたくが作曲を担当して、坂本九の歌が完成したとされています。


「明日があるさ」

1960年頃、選抜高等学校野球大会の入場行進曲に選定され、NHK紅白歌合戦の歌唱楽曲にも選定されるなど広く日本国民に親しまれています。


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“ 東日本大震災を忘れない ”


「Cantate Domino in B-Psalm 96」

この曲は、2010年に阪神淡路大震災の復興を願う曲として、神戸女学院の卒業生で構成される女声合唱団「KCクローバー」のために書かれた曲です。
初演の数か月後に東日本大震災が起こり、震災後アメリカで Sing for Japan という義援金プロジェクトが始まり、海外の合唱団だけでなく日本の合唱団でもこの曲を歌い、被災地に対して祈りをささげ、復興支援のための義援金を送ってくれた。

松下耕は、人々の心の優しさや温かさに感動し、心が打ち震えたと述べています。そしてこの曲が人間本来の持つ国や人種を超えて、助け合う心と平和への祈りの象徴として末永く歌われ続けてくれたら、うれしく思うと述べています。


[ 歌詞和訳 ]

うたえ 主に向かい 新しい歌を
うたえ 主に向かい すべての地よ
うたえ 主に向かい ほめよ その御名を
伝えよ 日ごとその救いを
主は大きく まこと賛美されるべき方
すべての神々に勝り 畏怖されるべき方
諸国の民の神々は空しく
しかし主は天を造られた
栄光と威厳はその御前に
力と麗しさはその聖所に
喜べ 天は 喜び踊れ 地は とどろけ
海とそこに満ちるものは
うたえ 主に向かい 新しい歌を



「群青」

この曲が生まれた平成24年当時、東京電力第一原子力発電所の北、半径20km圏内に福島県南相馬市小高地区全域が入り、当時の住民全員が避難生活を余儀なくされた福島県南相馬市立小高中学校の生徒たちのお話です。

小高地区は紅梅の里と呼ばれ、校歌に「浪群青に踊るとき」という歌詞があり、当時の小高中学校教諭の小田美樹先生は、「群青」が自分たちの色となり、詩の核になるとの生徒たちの日々のつぶやきを知り、そう思い続けることが私がここで今日を生きる力になっていると述べています。

106名であった中学生の2名が津波の犠牲となり、97名が北は北海道、南は長崎まで散り散りとなり、残ったのはたったの7名となった「群青の子ら」と再会できる日を信じているとも。


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第2ステージ

作曲家 “ 團 伊玖磨の世界 ”


オペラ「夕鶴」から
つうのアリア「さようなら」

オペラ「夕鶴」は、日本のオペラを代表する作品です。木下順二の戯曲「夕鶴」を台本としたもので、創作オペラとしては空前の好評を得た作品です。日本人なら誰でもが知っている「鶴の恩返し」を題材として作られています。

人間の姿をした鶴であることを知られた「つう」が、別れを告げる場面で歌われるのがアリア「さようなら」です。別れを告げる悲しさ、辛さ、しかし鶴の世界に戻れるという嬉しさにも似た複雑な気持ちが込められたものです。

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混声合唱曲
「岬の墓」

混声合唱曲「岬の墓」が生まれたのは1963年の夏にかけてで、堀田善衛が蓼科高原でこの詩を書き、團伊玖磨が八丈島の書斎でこの作曲を完成しました。

堀田の詩を非常に深い詩と捉えた合唱界の大御所的な存在だった木下保は、この曲の特殊なことの一つにピアノ伴奏にもさながら、オーケストラの各弦楽器の音色が要求されているようだとも述べています。

團伊玖磨は、堀田の言葉、紺碧の空(宇宙)と波間に休らう白い美しい船(自分)、さらに陽射しの照りつける中の白い墓(過去)と水平線の彼方に光る(未来)、そして絶対の真理である(赤い花)の、それぞれ変化するモチーフに従って作曲を進めました。



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